人は間違える存在である、という前提から始める哲学
人間は本質的に矛盾した存在である。
利己的でありながら利他的であり、優しくも残酷であり、合理的でありながら感情に左右される。
それは欠陥ではなく、生き残るために適応してきた結果である。
にもかかわらず、社会はしばしば「人は正しくあれ」「間違えるな」という前提で設計されている。
これは根本的な矛盾であり、多くの苦しみの原因になっている。
実際の重要なシステム――飛行機、鉄道、車、医療、インフラ――はすべて
「人は必ず間違える」
という前提で作られている。
複数のチェック、冗長な制御、止める仕組み、戻る仕組みがあるからこそ安全が保たれている。
つまり、本当に命に関わる領域ほど、人間を信用していない設計になっている。
それにもかかわらず、教育や労働、評価制度では、
個人に「正しさ」「一貫性」「失敗しないこと」を求め続けている。
これは構造的な無理であり、人を壊す。
賢さとは何か
賢さとは、間違えない能力ではない。
むしろその逆である。
人は必ず思い込む。
記憶は歪む。
発想には限界がある。
感情に引きずられる。
この事実を自覚しない者ほど、自分の誤りに気づけない。
自分を信用しすぎる者ほど、修正できない。
賢さの本質とは
「自分は賢くないかもしれない」と疑い続ける態度
そして
間違いを早く検知し、修正する能力
にある。
天才とは、間違えない人ではない。
発想を生み、育て、壊し、修正する速度が速い人である。
犯罪を犯す天才が存在することが示すように、
知性と正しさは無関係である。
賢さとは倫理ではなく、構造であり、姿勢である。
人と機械の役割
間違えないこと、同じことを正確に繰り返すことは、機械の得意領域である。
そこでは人間は勝てないし、勝つ必要もない。
人間の強みは、
怠けること
抜け道を探すこと
効率化すること
気まぐれに発想すること
意味を疑うこと
失敗から方向を変えること
にある。
人を機械の代替として使うのは、コストが高い。
機械に任せられる仕事を人にやらせる社会は非合理である。
AIの登場は、人間を不要にするのではなく、
人間が人間らしくある余地を拡張する可能性を持っている。
勉強と教育について
勉強とは、本来
知りたいことを調べ、理解し、自分のものにする行為である。
それはゲームでも、趣味でも、恋愛でも同じだ。
受験勉強は、歴史的・社会的に作られた選別システムに過ぎない。
将来役に立つかどうかは本質ではない。
「そういう社会だから有利になる」というだけの話である。
それを
「成長のため」
「耐える力をつけるため」
「やりがい」
として美化するのは誤魔化しである。
辛くて当たり前であり、嫌で当然である。
それを楽しいと言わなければならない空気の方が不健全だ。
生きる理由について
生きる理由は、固定されている必要はない。
むしろ更新されてよい。
大きな夢や自己実現を持たなければならないという考えは、
資本主義的な承認欲求の産物である。
来週の楽しみがあるから生きる。
今日食べたいものがあるから生きる。
それで十分である。
生きていること自体が結果であり、
一秒でも死ねばすべては終わる。
だからこそ、
健康や安定を削ってまで自己実現を強要する社会は、
マズローのピラミッドを逆さにしている。
社会と変化について
社会は間違える。
集団だからといって正しくなるわけではない。
むしろ
「自分たちは正しい」
と思い込んだまま間違え続ける方が、被害は大きい。
人間は失敗する生き物である。
だからこそ、失敗を前提に修正できる社会の方が強い。
変化は良いことばかりではない。
悪くなることもある。
それでも、変えて、戻して、直すしかない。
完璧を目指す社会より、
修正できる社会の方が、はるかに人間的である。
中心命題
人は賢いから生き延びてきたのではない。
賢くないことを前提に、修正し続けてきたから生き延びてきた。
【コメント】
一旦まとめておきます。いつか体系化したい。
